悪魔に憑かれた人間は、おそらくこの結界の外へ出られない。それはつまり、この街の外へ出られない、ということを意味する。
「それってつまり要するにしばらく帰れない、ってコトだもんなぁ……」
この場合、やっぱりまずは家に連絡を入れるとか言うとてもまっとうなことをしておくべきだろう。普通の外泊とは、わけが違う。
携帯電話とか言う文明の利器は持っていないが、幸い駅前、公衆電話という非常用の通信手段は残されている。
テレホンカードなんて懐かしいものは残念ながら持っていないので、財布の中身を確認する。こういうときに限って、10円玉が多い。
「留守電だったら最悪だな……」
そう呟いて、受話器を取る。暗記している10桁の番号を押せば、数回コール音が響く。留守電に切り替わる回数ではない。
「はい、どちらに御用ですか?」
変わった電話の応対方法は、ひとつの住所に住んでいる人間の苗字が全員違うせいでいつの間にか慣習になったもの。
けれど、聞き覚えのあるその声に、
「葉月……!」
思わず、口にしてしまう。
ああ、なんだろう、この声を聞くだけで変に落ち着く。こんな短い、他人向けのフレーズを聞いただけなのに。本当に自分は、どこかであいつに依存していると思い知らされる。
「……ユウ?」
返答をするのをうっかり忘れて、向こうが不審そうに声をかける。葉月を『葉月』と呼ぶのは緋夕だけだし、緋夕を『ユウ』と呼ぶのも葉月だけだ。
「あ、ごめん、そう」
気の抜けた返事。電話の上に古風に積み上げた小銭たちが、タイム・リミット。だから説明は簡潔に、確実に。
「どしたの? あ、そっち模試受けてるんだっけ?」
のほほん、とした声。ああ、あっちはちゃんと日曜日満喫してるんだろうなぁ。
「ん。いま、その会場の最寄り駅。公衆電話からかけてる」
しかし、いざ連絡は入れてみたもののどう伝えたらいいものか。
「帰るコール……なわけないか。何か用事?」
わざわざ公衆電話からかけねばならないなら、よっぽどの用事になるだろう、と向こうが踏んでくれたようだ。
「用事って言うか用件、って言うか……、いま、うちにいるのおまえだけ?」
葉月と話していたい。だけど、この用件を伝えるのにはたぶん一番不適切な人物。変に心配はかけさせたくないけど、どうしようもない異常事態なのは事実だし。雑談している暇はないので、不本意だがほかの人間がいればなぁ、と思いつつやはり望み薄だったようだ。
「ほかの人間がいたらとうの昔に電話取ってると思わない?」
ちなみに葉月は結構な電話嫌いだ。あの取次ぎにとんでもない面倒くささを感じるらしい。
「ちょっといろいろとわけがあって、こっち異常事態で緊急事態な感じになった」
「どした? 財布でも落とした?」
さすがに向こうも不審に思ったらしい。
「いやー……落し物というよりはむしろ厄介な拾い物をしたというか……」
ようは現状今一番困っていて、向こうも知っておかなければならないことをまず伝えよう。『悪魔』だ『結界』だなんて厄介な言葉は使わずに。
「まあ、事情と理由がすごく説明しづらいんだけど、一言で言えば帰れなくなった。この街自体がちょっとしたトラブルに巻き込まれてるらしいんだ」
「帰れない、って今夜? あ、なんか事件とか事故とか? ニュースとかやってる?」
そうわざわざ訊くってコトは、たぶん親機のほうの受話器を取ったのだろう。こんな状況なら何かの事件くらいどこかしらでは起きてるだろうが、この時間帯に全国区になるほどのニュースはやってるかどうか。
「たぶんやってないと思うけどな、微妙にそういうのと違う問題だし。今日帰れないのは確実かな。帰れるのは……。あー……どれくらいかかるかなぁ、これくらい大規模なことやらかそうって事は短期決戦なのか、それとも気づかぬうちに泥沼化してく危険性も?」
少なすぎる情報ではどうしようもないが……と考えながら呟いていたのは向こうにかえって不信感を抱かせたらしい。
「もしもーし?」
す、と息を吸ってはく。
「一週間」
そして緋夕はきっぱりそう言い切る。目安になる区切りなら、これくらいがいいだろう。
「最後の連絡から一週間経っても、俺が帰れないような状況が続いてたら、あるいは、俺が連絡も取れないような状況が続いてたら、どんな手段をつかってもいいし誰を経由してもいいから、父さんに連絡つけて、この事態を説明して。家へはなるべく連絡入れるようにするから。あ、それと……」
一気に言う。言っておいて、巻き込まれた事の危険性に自分で改めて気づかされる。だから。
「ぜったい、こっちには来るな」
強い口調で、念押しする。葉月にまで、危険の及ぶようなことはさせたくない。
「………わか、った」
少しだけ無言の時間が続いて、塊を飲み下すように葉月が呟いた。自分が入り込める領域でないことに気づいたのかもしれない。
「……ごめん」
小さく、緋夕は呟いた。それくらいしか、何を言っていいのかわからなかった。
十円玉を追加する。あとどれくらい、時間は残っているんだっけ。
「ねぇ……」
ふと、葉月が呟く。
「ん?」
「……ごめん、なんでもない」
もどかしい。
「そっか。あの、さ……」
言いたいことは、こっちにもある。あるけれど。
「何?」
「ごめん、やっぱこっちもなんでもない」
ホントは、きちんと伝えたい、約束したい。
『必ず、かえって来るよね?』
『必ず、かえってくるから』
だけど、いえない。
はぁ、とひとつ緋夕はため息をついた。そうだ、この事態はむしろ、自分よりも『彼ら』の領域。
「もし、蒼天か父さんが帰ってくるようなら、このこと伝えといて」
「わかった」
続く無言。
絶えかねて、「それじゃ」とだけ短くいって、受話器を乱暴に置く。とたんに襲ってくる自己嫌悪。
「どんだけヘタレなんだよ。俺……」
立っている気力さえ抜けてしまって、思わず電話ボックスの中に座り込んでしまった。どうせ誰も気にしていない。
だからといってここで泣くのもなんだか可笑しいよなぁ、とか思っていたところに、ブリジットから声をかけられた。
「いいのか?」
そうだ、いたんだ。ずっと黙っていてくれたのか。
「何が?」
「何を言おうとしていたかはわからんが、言わなくて後悔するより、言って後悔したほうがマシだろうに」
「うん……だけど、守れない約束はたぶん、お互いを必要以上に傷つけるだけだから」
そういって立ち上がり、もう一度緋夕は受話器をとった。もうひとつ、連絡を入れておきたいところがあったのだ。
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やっぱ、予想はしていたんですけどこっちが没になりましたね。うん、メリッサに見せたときも葉月がかわいそうって怒られた。どうも自分はうっかり男性キャラをどんどんヘタれに書きがちになる癖があるらしい。